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切り絵による絵画を制作しています。東京での個展開催、ライブパフォーマンス等の活動も行っています。

わが愛はエゴである。

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わが愛はエゴである。

ものごころついて絵を描くようになってただひとつ、ずっと悩み続けていることがあります。
それは、好きな人がうまく描けない、ということ。
厳密に言うと好きな人だけうまく描けない、のです。
第三者がその絵を見てどう思うかは別として、自分の思うように描けない。
あ、「好きな人」っていうのはもちろん異性です。
このことについて自分なりに掘り下げて考えてゆくと、ある事にたどり着く、ぶち当たるのです。それは僕の
絵に対するひとつのテーマであり、持論。
僕は普段から人物画を描くときは、ただただその人のイメージを描こうと思っています。
仮に、ですがモデルの写真と描いた絵を第三者に見せて
「わ!似てる!」
と言われたら終わり、ぐらいに考えています。
そのレベルかと。
ただ「絵を描く技術が優れている」とだけ思われている、と捉えてしまう。
まあ、簡単に言うと「写実的な絵画」が苦手なんです。
しかし、僕が大切にしている仕事のひとつ「似顔絵」。
これは大衆娯楽というか、歌手でたとえるなら歌謡曲を歌う感覚で臨んでおり、自分の求めるマイノリティな客席を意識した作品とは別物としています。
それでも漫画チックに過ぎる部分もありますが、楽しんで描いています。
この分野では、モデルに似ているということは絶対条件として考えています。
そして、自分が本当にやりたい絵。
これはポップやキャッチーをさておいて、「客席に近づかず、客席のほうから近づいて来て~な~。ちょっとぐらいはそっち行くし~~~」
と思って臨んでいます
本人に似せよう、上手く思われよう、褒められよう、という思いから隔絶された作品で、客席には自分ひとり、
この自分にだけ褒めてもらいたい絵こそが八田員徳の完全なるオリジナル作品であると思うてます。
話は横道にそれましたが、ぼくが「好きな人」「想いを寄せる人」を描こうとするとき、ひとつの矛盾点が発生していることに気付いたのです。
それは、好きな人を描くとき誰が見ても似ている、その人とわかる絵を描きたい 、と思っていることでした。
これはあくまで持論ですので、気を悪くしかけた方、どうかご理解いただきたい。
ぼくは絵描きとしてはどうかと思われるかもしれませんが「似ている人物画」というものは、あくまで人を物質として捉えた絵にすぎないと考えているのです。
当然ですが僕は、リンゴも花も花瓶も建物も、物質として上手く描けます。
人物画もご多分にもれず、そうやって似ているように描く技術をもっています。
ご依頼くださったお客様の意向にそって、喜んで頂ける事を想定して描けると思っています。
けれど僕は大衆娯楽として捉えている「似顔絵」でら、
王道から少しずらしたところで勝負しています。もちろん他人には気付かれない次元で。
アーティストとしては○
人としては△(ひねくれている)
それが僕にとってはとてもバランスの良い状態であると信じています。
しかし 、です。想っている異性を描くとなると 、物質的観点から似ている絵を描きたい、
と心の底から思ってしまうのでござる。びっくりしたやろ?ここで急に「ござる」て。
近づきたい、本物に少しでも。
と思ってしまう。
つまり、僕があまり好まない「写実的」な絵画を実現しようと思うのです。
自分の掲げるテーマでもある「内面的な実体」を描くことから、完全にそれてしまっている。
これはまさに自分にとっての大いなる矛盾。。。
けれど、うすうす分かっていることではありました。
実現すべくは自分だけの絵、というこれは自我。
だけど愛する人に関してはその自我を消してしまう。
愛されたい、嫌われたくない、認められたい、そう思ってしまうわけです。
僕が41年生きてきて結婚せず、またその兆しもない、というのはつまり「好きな人」よか絵を描くことを1ミリでも先に優先しているから、 たぶん。
でも、根底にあるのは「好きな人」の気を引くことから始まっている、それが絵を描く動機。
とても矛盾そのものの想いが混在しているのです。この矛盾と一体この先どう向き合ってゆくべきなのか。。。

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